関生ヒューマンスポット No.51
● 滋賀ブロック M組合員 ●
1972年1月に初めて生コン車に乗務してから、今年で48年目に突入しました。
まさか50歳の時に、2度も大病を患い手術をした私が、70歳まで現役のドライバーとして続けられるとは思ってもみませんでした。ここまで来られたのは、「連帯労組のおかげ」と言い切ることができます。
私は、1980年にH社で分会の一員として公然化しました。28歳の時でした。その日から今日まで、仲間を信じて頑張ってきました。
さほど、勉強は好きなほうではありませんでしたが、組合に加入したことで「哲学・経済・労働法」を学ぶことができました。労働学校で行われるセミナーを受講し、講師の分かりやすい説明を聞くたびに確信を深めることができました。
興味を持って取り組んだ結果、多くの仲間と対等に会話ができるようになり、今では「老いた分だけ経験が豊富になったかな?」と感じます。
また、今は亡き川村・宮脇両副委員長と、東西南北を走り回った思い出が、今でも時折夢のなかに出てきます。
さらに、T運輸の社長が(当時は副委員長として活躍されていた頃)、組合員やその家族にまで、細心の心遣いで接してくれました。仲間の団結強化を貫いた結果が、H社闘争の勝利に結びついた要因だと思います。闘争期間中は、月に10日以上寝泊りをしてくださり、夜が明けるまで話した時間を忘れることはできません。本当にありがとうございました。
闘争解決後は、K社の専属輸送のS生コン運輸にトレードで移籍しましたが、阪神・淡路大震災の影響で閉鎖。関連するK生コンへ就職するも、9年で経営不振となり倒産しました。
後に、九州のA生コンが経営しましたが、業界との対立で大津工場は閉鎖し、近江八幡工場のみが稼働していたため、私はアルバイト(運転手の正社員はゼロでした)として働きました。
不況の中、S生コンとA生コンが合併し、K社としてスタート。この時に、日々雇用になりました。
そして、3年前に、賃金・労働条件の改善を求めて、公然化し現在に至っています。
長い年数の中で、本当に色々なことがありました。
私の残りの人生をかけて、分会の質的強化と仲間の拡大に少しでも力添えできるように、頑張りたいと思っています。
よろしくお願いします。
最後に私の好きな言葉。それは、「縁(えん)」です。
【 くさり2月号より 】